なんちゃってリーダーはいらない

 「ふわとろ」プリンと「かたい」プリンの争いのなかに「どっちつかず」プリンを提案するコピーライターの糸井重里さんの記事を読んで、アナウンサーの古舘伊知郎さんが感銘を受けたというユーチューブの対談を観た。「ふわとろ」プリンがいいとか、「かたい」プリンがいいとか言い切る風潮があるが、現実は、「ふわとろ」プリンを食べて大満足のときもあれば、「かたい」プリンを食べて大満足のときもあるんじゃないのということらしい。糸井さんがプリンをつくるなら、どちらの食感とも言えない「どっちつかず」のちょうどいい食感のプリンをつくるそうだ。

 この記事とは関係ないが、東野圭吾さんのなにかの受賞スピーチの切り抜き動画は「どっちつかず」プリンがどんなものか補足する内容だった。故伊集院静さんと東野圭吾さんが賞の選考をした際、伊集院静さんから「東野圭吾さんは自分の意見をどんどん変えるからいいんだよね」と言われたそうである。「どっちつかず」プリンには、「どっちの意見も受け入れる」という考え方だけでなく、「自分の意見をどんどん変えるのもあり」という考え方も含まれていそうである。

 糸井さんの想いを言葉にするとこんな感じだろうか。「自分が好きだと思っていることについてあれこれ考え続けるのって楽しくないですか?」

 子供の頃は、誰かが何かを主張すると、横から反論する別の人が出て来て、その場ではどっちの意見も受け入れることがよくあった。そして、いきなり結論を出すのではなく、個人個人が、時間をかけて考えを巡らすようなところが「日本の忖度文化」にはあった。「どっちつかず」プリンとは、昔の日本人の心のあり方のようにも思える。昔、糸井重里さんが若者向けの討論番組の司会を軽快に仕切っていた事を想いだす。糸井さんにとってはもっと洗練された「仕事の流儀」なのかもしれない。

 コンピュータが普及しネッワーク環境が整備され、コンピュータを使っての情報のやりとりが当たり前になった。そのことによって誰もが、日常の生活のなかで「選択」を求められるようになった。問題なのは、便利な反面、選択する内容をきちんと了解せずとも「選択」できることである。そして、多くの人が、実際、あまり考えずに「選択」している。

 テレビやユーチューブ、その他のネットメディアでは、インフルエンサーと呼ばれる人たちが、いろいろなことを主張する。主張には、裏付けとなる証拠や根拠となる情報が必要である。もし裏付けとなる証拠や根拠となる情報がなければ、主張は単なる思い付きや思い込みに過ぎない。イシューの解である仮説にはならないのである。しかし、仮説検証には、物事を順序立てて考える論理的な思考力や複雑な現象から重要なエッセンスを抜き出し、フレームワークやグラフなどの二次元の図に置き換える「地図思考」が求められる。結局、ここでも、多くの人が、仮説検証についてはなにも考えず、インフルエンサーの主張を、自らの主観に基づき鵜呑みにしているのである。

 ダウンタウンの松本人志さんが週刊誌による性加害報道により休業宣言をした。性加害が事実であるならば賢明な判断のように思える。しかし、事実と異なるとして裁判で争うようだ。事実と異なるということが性加害がなかったことを意味するのであれば、休業する必要があるのだろうか。同じような印象を、安倍元首相の森友事件の際にも感じた。国有地の払い下げにおいては、財務省が籠池さんに便宜を図った事実がいくつも報道され、職員もそのことが理由で自殺した。そして、その籠池さんと安倍元首相の奥さんがばっちり写った写真も公表された。安倍元首相を忖度した財務省が籠池さんの要求を受け入れたのが真実だとすると、安倍元首相が責任をとって辞任するか、財務省に対する責任追及を政府が行うべきだったがどちらもなかった。共通しているのは、それまで、度あるごとに情報発信してきた二人が、自らの人格を疑われている状況において、多くの人が忖度できる発言をしていないことである。

 安倍元首相の発言もダウンタウンの松本人志さんの発言も、身の潔白を晴らそうとしているというよりは、インフルエンサーと呼ばれる人たちが自分達の主張の正しさを納得させるために「事実」を述べるのと似た印象をもつ。主張の正しさは本人が一番わかっているはずだが、そのような個人の葛藤が伝わってこない。そして、このような発言では、仮説検証ができない人に対してであれば、矛盾しない理屈をこねくり出し嘘でごまかすことも可能だということである。安倍元首相の政治家としての功罪とは別に、その当時の安倍元首相の発言に対する国民の疑念は今でも変わっていないような気がする。財務省についても同様である。安倍元首相はお亡くなりになってしまったが、森友事件という不祥事によって、財務省は今でも国民に対して、正しいメッセージを届けられなくなってしまったのではないだろうか。つまり、このままだと国が滅びますよというメッセージを発信しても国民に相手にしてもらえなくなってしまったのではないだろうか。その事の方が、その当時組織として一時的に信頼をなくすことより不幸な結末ではないだろうか。

 安倍元首相や松本人志さんのような世間からリーダーとみなされる人が人格を疑われるような不祥事を起こした場合はどうすべきなのか。私はどのような人物であれ、自分の立場を一度離れて一個人として釈明するか責任がある立場でそれが許されないのであれば今の立場を離れるかどちらかが必要であると思う。松本人志さんの場合も犯罪の認識がないのであれば、具体的な事実を認めたうえで被害者と自分の認識のズレを率直に語った方が良いのではないか。人格を疑われたままでいると世間からなんとなくスルーされてしまう状況がずっと続くのではないか。不祥事を起こした、常に結果が求められるリーダーの心境は、試合中にアクシデントにあったスポーツ選手の心境と似ているのかもしれない。安倍元首相も松本人志さんも、審判の笛が鳴ったのにプレーを続けようとしている選手に見える。

 情報を発信する側に問題がある場合もあるが、現在の日本においては情報を受け取る側の思考停止も大きな問題である。「選択」にしても「仮説」にしても「全体像」が予測できるかどうかによって、ユーチューブを観たり情報端末を操作したり、やっていることは同じなのに人によって理解度が大きく変わってきてしまうようなことが起きている。多くの人が訳もわからず「事実」だけを追いかけているようなところもある。真実から逃げないのは良いことだ。しかし、その事実を自分がどう思うかどう考えるかということも大切である。現在の日本では、情報を発信する側と情報を受信する側との間で意思疎通が難しくなっている現実がある。

 政治家や経営者、医師やシステム開発のSEなど仕事の職種によって、自分の考えをコロコロ変えることが許されない人たちも居る。犯罪行為の有無などの取り調べや裁判のようなケースも同様である。現行のシステムがうまく機能しているのであれば何も問題はない。しかし、個人の不祥事やその他多くの場合に、どんな内容でも個人の主張と根拠のような論理で語るのは必要以上に話を複雑化させているだけのようにも思える。

 ReHacQというユーチューブ番組で、億単位の投資詐欺にあったTKOの木本さんが出演していた。番組自体は投資詐欺にあわないにはどうしたらよいかというテーマで話が進められたが、木本さんの発言には、裁判中の現在の近況、自分が声をかけたことで自分以外の人間にも借金を背負わせてしまった自分の責任、なぜ自分はこのような投資トラブルを起こしてしまったのかなど被害者としての立場以外の発言も目立った。億単位の自分の投資トラブルを通り一遍の説明ではなくきちんと説明できるのは、木本さんの話術であり話術が相手に伝わるのは木本さんの真摯な姿勢からだろう。以前イノベーションを行うリーダーには、真摯さが大事であることに触れたが、「どっちつかず」プリンの思考で相手に情報を発信する際にも、真摯さが大事であることに気づかされた。もちろん、「どっちつかず」プリンの思考で情報を受信する側においても、思考停止に陥らないために真摯さが大事な役割を果たす。

 もう一点指摘したいのは、ジャニー喜多川氏の性加害問題においては、ジャニー喜多川氏と被害者の間での事件以外に、発言力のあったジャニーズ事務所の関与やテレビ局の忖度が問題になった。ダウンタウンの松本さんの性加害が事実だった場合には、発言力のある吉本興業の関与やマスコミの忖度も問題になりそうである。森友事件では、当然、時の政府と財務省の力関係はあったはずである。そういう「裏の権力構造」があることを国民は気づき始めているし、そこでのやりとりをなるべくカモフラージュするような発言しかマスコミ向けにはしていないことも理解しているのである。だから、政治家や官僚だけでなく財界人も含めて、これらの人たちの発言を自分の仕事と関係がなければ、聞き流す傾向にあるのではないだろうか。

 しかし、日本の少子高齢化や財政状況は深刻で、現状のままでは日本は破綻してしまうのではないか心配されている。誰の言うことも真に受けられないよねーという風潮では困るのである。私が考えるイシューは、「多くの人が安全で安心に毎日を楽しく過ごすためには何をすべきか」である。現在の日本においては、このイシュー実現のためにある程度国のシステムが機能していると思う。しかし、少子高齢化や国債発行残高が増え続けるような深刻な財政状況において、いつまで国のシステムを維持できるのかという不安は、老若男女問わずほとんどの国民が感じているも事実である。結局、将来に不安があれば、「安全で安心」とは思えない訳である。

 最近は、国会中継の切り抜き動画がユーチューブでも観ることができる。立憲民主党の野田佳彦元首相から岸田首相への質問で「防衛費の増額や子育て支援の政策をお決めになったが、兆単位のお金の財源はどうするつもりなのか」というのがあった。財源確保のために何かされてますかということだ。岸田首相のぼんやりとした答弁を聴いていて思うのは、直近の政策の予算についても具体的なことが決められていないのであれば、増え続ける社会保障費についても、「なるべく減らす方向で」みたいなぼんやりとしたことしか決まってないのだろうと思った。都道府県の元知事の発言を聴いていると、管轄の都道府県の状況をかなり細かく把握していたり予算の優先順位まで考えていることを考えると対称的である。

 私の考えるイシューの解をみつけるには、独創的な解決策とその仮説を緻密に仮説検証するための分析能力を併せ持ち、イノベーションを実行に移すことができるチームの存在が必要である。私はこれだけ混沌とした世の中で、あらゆることに対して情報を発信しているご意見番みたい人の意見には懐疑的である。自分の研究分野、得意分野から出た意見でないと、イノベーションが革新的であればあるほど、最終的にイノベーションを実行する段階で問題がみつかるみたいなことが起きるのではないかと思う。はっきりとした結果を出すことを公言しイノベーションを実行するチームが必要である。日本を見渡せば、イノベーションをチームで進めて成功している会社や組織は、すでに存在するのかもしれない。

 チームのだれもが真摯な姿勢でイノベーションについて議論し国の政策として実行に移すべきである。政治家のキックバックや官僚の天下りなど政治家官僚企業のわかりやすい構図について言及するつもりはないが政策が歪められてしまうことは問題だ。大企業からの見返りを期待して大企業を優遇する政策を優先する一方で消費増税などの政策を行い所得の少ない人を追い込む社会を健全とは言わないだろう。地方自治体のような優先順位を考えた予算の付け方と社会保障費や子育て支援などの予算を圧縮するためのイノベーションを並行して行う必要であるのではないか。(それとも、すでに手遅れなのか!!!)イノベーションがどのようなものか国民にビジョンがが示され、国や都道府県レベルの地方自治体の具体的な役割が見える段階になれば、国民に対する国の信頼も少しは取り戻せるではないだろうか。