空気を読まない事について

 2023年5月25日、刃物や猟銃で警察官など男女4人を殺害した長野猟銃立てこもり事件が起きた。遡って考えても、白昼の銀座高級時計店での強盗事件、「ルフィ」と名乗る人物をリーダーとするグループによる連続強盗・特殊詐欺事件、渋谷の裏道で親子2人が刃物で襲われ大けがをした事件など、周囲のことをあまり気にしない大胆な犯罪が近頃増えている。この傾向にはなにか理由があるのだろうか?

 経済の低迷が30年続くなかで日本の少子高齢化人口減少社会が足音が聴こえるぐらいに間近に迫ってきている。一方で、国の借金である国債の発行額は、1千兆円を超えてしまった。このような閉塞的な状況を打開すべく国も企業も個人も、「現状維持」を良しとしないイノベーションを求める風潮ができあがりつつある。イノベーションのあり方については、これまでも何度か書いてきたが、少し付け加えると、政治家であれサラリーマンであれ個人であれ、イノベーションの責任者には、プロのスポーツ選手のようなプレーヤー感覚をもつ事が大切なのではないだろうか。プロのスポーツ選手であれば、だれもが自分の能力を最大限に高め戦略を立てて試合に望む。マスコミを通じていろいろな情報が流れ観る側の気持ちも高まる。そして、試合となり選手が「結果」を出せばマスコミでも報道され、その後も評価される。しかし、どのような理由であれ「結果」を出さなければ評価されない。選手のコーチは、試合のなかでやれたことやれなかったこと、他の選手との比較など、試合結果ではなく試合の「過程」を通じて選手を評価する。プロのスポーツ選手は、試合の「結果」や「過程」について客観的に評価されている。同じようにイノベーションの責任者にも、イノベーションを行った「結果」や「過程」についての客観的な評価が必要なのではないだろうか。すごく当たり前のことのように思えるかもしれないが、日本の忖度社会では、「だれが」と「結果」が常に紐付いているとは言えないのではないか。欧米では、企業が4半期ごとに財務状況を報告するのも、「結果」や「過程」を示すことを常に求められているからではないだろうか。「結果」や「過程」が示されなければ、客観的な評価ができないと考えるからだろう。また、草創期のIT企業など当事者以外は事業内容について理解できなかったとしても、厳格な財務状況の要求によって客観的な評価が間接的に可能になる。つまり、これが、鉄道、自動車、飛行機、医療、電気、コンピュータ、ネットなどを発明してきた欧米のイノベーションの歴史、文化なのではないだろうか。日本のアニメが世界中で評価されるようになるまでには、日本の漫画の歴史が必要であったように、エンゼルスの大谷翔平選手が大リーグで活躍するためには日本のプロ野球の歴史が必要であったように、イノベーションの歴史を作っていかなければいけないということではないだろうか。そのためには、イノベーションの責任者は、プロのスポーツ選手と同じように、結果や過程についての客観的な評価とセットで考える必要がある。そして、個人が責任を取る方法は、辞めるか任期で降りるかどちらかしかない。

 イノベーションを起こすには、ちきりんさんが「自分のアタマで考えよう」という本のなかで語っている「洞察」を得る事が必要になる。「洞察」とは、「統合された知識から出て来る新たな意味」(「思考」のアウトプット)である。「知っていること」は、通常「知識」と呼ばれており、「情報に基づく思考の結果」とは異なる。しかし、多くの日本人は、この「思考」のプロセスと今まで自分が培ってきた「学習」のプロセスを混同している。もしくは、「学習」の思考回路で、イノベーションを起こせず悩んでいる。ちきりんさんが著書で主張している通り、「解法を知ること」と「解法を考えること」は異なる。「解法を知ろう、解法を勉強しよう、解法を覚えよう」と知識を吸収することに専念していると、「解法を考える力」がまったく身についていないことに気づかされることになる。「思考」とは、自分の眼の前にあるインプットである情報をアウトプットである結論に変換するプロセスのことである。

 イノベーションを起こすには、「仮説思考」というフレームワークも必要になる。課題に対する結論となる「仮説」を立てた上で、根拠をあげ根拠となるデータや事例を集める。うまく行かなければ、「仮説」を変えて、同様のことを繰り返す。一方、「洞察」を得る為には、情報収集プロセスを経て、思考の棚や先人が築いたフレームワークに当てはめたり、数値情報をグラフにしたり図式にしたり、自分のアタマにある考えを図や絵で表現したりする分析プロセスを行う。分析プロセスとは、情報収集によって集められたデータを「思考」しやすいように整理・加工し、二次元の情報に可視化するプロセスである。その上で、自分の眼の前にあるインプットである情報をアウトプットである結論に変換する思考プロセスを通じて「洞察」を得ている。前者がトップダウン思考であるのに対して、後者はボトムアップ思考である。真逆の思考であるが、「仮説」や「洞察」は、ピラミッドやロジカルツリーで表現することができる。このことは「仮説」や「洞察」が共に根拠に基づく論理的な結論であることを意味する。

 ここまで見てきたように、イノベーションは、状況を客観的に分析した上での論理的な帰結なのである。だから、ある程度の勝算を見込んで実行に移す訳である。それでも現実には、「想定外」の事も起こる。しかし、上手く行っても行かなくても、課題が解決できたかどうかの客観的な評価は一目瞭然のはずである。失敗に終わったとしても、責任の所在を明確にした上で、再出発するのが本来の姿だろう。私達は、アメリカで生まれるイノベーションによる新たな製品やサービスを真似るだけでなくイノベーションの文化についても学ばなければならない。そして、現在日本が直面している多くの課題解決に繋げていかなければいけない。

 現実には、大企業のサラリーマンが、イノベーションを起こし世間を賑わすこともある。しかし、私達がイノベーションについて影響を受ける人の多くは、ネットのインフルエンサーやベンチャー企業からの経営者、学者などではないだろうか。これらの人たちの特徴として、個性的で、ある分野に精通していて、自分なりの考え方を持っている。時に、周囲の空気を読まないような過激な発言もする。そして、どちらかと言えば、個人主義者だ。バブルの頃なら、オタクとよばれ「暗れーよ」でかたずけられていたかもしれない。しかし、現在の日本には、地球温暖化、コロナ、少子高齢化が進むなかでの社会保障制度、1千兆円を超える国債発行、格差による貧困層の広がり、福島県での原発事故、中国船籍による領海侵犯、北朝鮮からのロケット、ウクライナでの戦争など、テレビドラマや映画の脚本のような「日常生活とギャップのある現実」が存在している。そして、「日常生活とギャップのある現実」は、時が経てば解決してくれる場合もあるだろうが多くの場合解決されない。私達は、未来に対する漠然とした不安を抱えながら見て見ぬふりをして生活している。根本的な問題解決が行われないなかで、これらの人たちの意見に注目が集まっているようにみえる。

 ここで触れたいのは、これらの人たちの個々の発言の是非ではなく、どちらかと言うと個人主義者の人たちの発言であるという点である。個人主義がイノベーションの前提となる土壌のようなものであったとしても、万能でないことは、欧米の社会を観ても察することができる。欧米の映画などに出て来るどこに行っても誰にも相手にしてもらえない孤独な人間の姿には、個人主義の理想と現実の違いを痛感させられる。欧米の社会における幸福は、ストレートに個人の幸福を意味するのだろう。しかし、忖度文化をもつ日本人にとっての幸福は、自分の事だけでなく自分の周囲の人たち、志のある人であれば日本人全員の幸福を意味していたはずである。そして、日本人同士で助け合うことに喜びを感じたりもしていた。しかし、個人主義が浸透して行くに従って、そういう文化が消えつつあるのが現在の日本なのではないだろうか。個人が多様性や進化を求めるなかで人との繋がりを切り捨てる風潮が、公の場で平気に嘘をつく人や周囲のことをあまり気にしない大胆な犯罪が増える原因になっていないだろうか。

 日本社会には、政治家や官僚、財界による「日本の忖度社会」による個人への同調圧力も存在する。同調圧力とは、利益の供与、脅迫、マインドコントロールのことである。政治家や官僚、財界による「日本の忖度社会」という非常に限られた人たちの間で互いに忖度し不正をスルーしたりしなかったりして互いに利益誘導を行っている。これでは、「総理大臣です」とか「経団連会長です」などと言われても、一般の人が本気で忖度することはできない。表の顔と裏の顔があって裏ではそのような事実を黙認しているからだ。こういうことを続けた先にあるのは、貧困層の広がるなかで本音と建前を分けて話しその事実を黙認する分断された社会だろう。個人主義者のインフルエンサーが「他人の事など関係ねえ」という発言が真実味を増す。

 ユーチューブなどを観ていると明らかにテレビや新聞、雑誌などのメディアと異なる内容が伝えられることが少なくない。売名行為のような類も少なくないが信憑性が高いと思えるものも存在する。テレビや新聞、雑誌などのメディアも、日々のあらゆる出来事を「公の場」で明らかにしているようにみえるが、現実は、監督者である政治家や官僚、スポンサーである財界による「日本の忖度社会」に配慮したフィルターを通した情報提供しか行っていないのではないだろうか。つまり、私達が物事を判断するために必要なインプットとなる情報の一部が提供されていないことになる。

 民放のテレビ局はスポンサーが居て成立していることを考えると、視聴者もある程度忖度して観ているのかもしれないが、NHKは国民から一律に受信料を集めて成立しているので、多くの視聴者から「NHKは公平な立場で報道している」と思ってもらわなければいけないはずである。にもかかわらず、他のメディアから今まで表に出ていなかった事件性のある事実が公表されるようなことがあれば、その時にはなぜ、公共放送であるNHKは、その事実をもっと早く取り上げなかったのかストレートに問題視すべきなのではないだろうか。「今日も悲しい事件がありました」と伝えるNHKにも責任の一端があるのかもしれない。

 新聞については、保守的な視点ばかり強調されて事実を上空から見下ろす鳥のような視点で複眼的かつ論理的に伝えるための取材力が落ちているのではないか。1つの記事でもいろんな人が発言し参考にしている時代に、保守的な視点と政府批判に終始しているだけでは情報ソースとして価値があると感じる人は少ないのではないか。新聞というものは、世の中の出来事を幅広く知りたいと思って読むものだと思うので、政治家や官僚、財界などの「日本の忖度社会」に配慮しているかどうかはともかく、読者から偏りがあると感じられてしまうようでは本来の役割を果たせていない事になる。

 読者や視聴者が喜びそうな面白いコンテンツが乱立する時代に、テレビや新聞をはじめ、すべてのメディアは、読者や視聴者が喜ぶ面白いコンテンツを提供することがすべてのようなところがあるのかもしれない。しかし、混沌とした世の中で、多くの人が、世の中で起こる出来事の真実を公平な立場で伝えてもらいたいと考えているのも事実である。公共放送であるNHKや大衆紙である新聞が、このような読者や視聴者の要望を疎かにしてしていると、NHKや新聞の存在意義自体がぼんやりとしたものになると考えるのは私だけだろうか?

 この記事を書いている間にも、自衛隊員候補生による発砲事件が起きた。混沌とした世の中で、私達は、「真摯さ」と「忖度」のどちらを求めているのか自らに問わなければいけない状況に直面している。政府や国は、「公の健全さ」を判断基準とした安全で安心な生活を送るための政策を愚直に真摯に国民に提案して行くべきである。なぜ政府や国なのかと言えば、少子高齢化やグローバル化が進む日本社会のなかで、イノベーションが求められる日本企業の多くは、社員を家族のように考える終身雇用制度が崩壊する傾向にあるからである。しかし、日本人や日本に住む外国人全員にとっての幸福とはなにかという日本的な価値観は、イノベーションと引き換えに失って良いものではないはずである。そのためには、日本に住むすべての人が、課題解決のための欧米のイノベーションという個人主義の文化を受け入れながらも、社会学者である宮台真司さんが言われる「助け合える仲間」や「信頼できる社会」を求めていることを自覚すべきなのだろう。政府や国は、個人の主義主張のような場当たり的な発想で改革しようとするのではなく、守るべきもの変えるべきものを明確にし、先に説明したイノベーションのように論理的に考え少しずつでも成果を出しながら国民の信用を取り戻して行くことが大切である。前大阪市長の松井一郎さんが国政のあり方について「理想的な政治を期待するのではなく少しでもマシな政治を望むべきだ」と言われていた。理想と現実があって政治は思い通りに行かないものだが責任者不在ではいけないということだろう。周囲を気にしない大胆な犯罪が増える背景には、変化を求められる社会で個人が物事の道理や善悪の判断を見失っていることが関係しているようにみえる。