歌詞と詩のはなし

 歌の力、音楽の力を考えるようになったのは、直木賞を取ったなかにし礼さんの小説「長崎ぶらぶら節」を読んでからかもしれない。「ストーリーの力」の「力」も、この小説の影響だろう。貧しい漁村の娘として生まれた主人公のサダは、幼い頃身売りされその後芸者となる。芸達者だったサダは人気芸者愛八となり、市井の学者古賀十二郎と出会う。古賀に恋心をいだくようになった愛八は、旦那の幸兵衛に申し出て手切金も貰わず別れてしまう。古賀の誘いで、歌探しの旅に出る。歌に出合うと、古賀が歌詞を記録し愛八が三味線を使ってメロディを記録した。苦労の末、長崎ぶらぶら節に出合う。歌探しの旅が終わった後、肺病になったお雪という娘を病院に入れ治療する為にお金を工面する日々が続くが、ある日旦那の幸兵衛 から受け取らなかった手切金をなぜか弟の与三治が勝手に貰いに行った事を知る。旦那の幸兵衛に謝り、お金を取り戻す為に弟に会いに行くが、弟の与三治は悪い奴らに騙し取られお金がない事を告げるだけでなく、逆ギレして愛八は捨て子で自分達家族とは血が繋がっていない事まで話してしまう。愛八は自分のアイデンティティを見失いそうになるが、そんな中で歌を作るのである。古賀に歌詞を付けてもらい浜節という歌ができる。(この部分は、なかにし礼さんが兄の借金を肩代わりしていた事と重なって見える。)その後日本の民謡を訪ねて旅をしていた売れっ子の詩人西條八十と出会い、愛八の歌う長崎ぶらばら節はレコードになり、長崎ぶらぶら節は長崎の芸者がだれもが歌う曲になる。幼少の頃は家が貧しく身売りされひとつ違えば遊女になっていた身の上を考えれば、芸者になってからの愛八の人生は旦那にも恵まれお座敷からの収入もあり一見穏やかに見える。しかし、義侠心からか辻占売りや花売りの少女を見かけるとお金を渡してしまう。肺病になったお雪という娘を病院に入れ治療する為にお金を工面する。死んだ時には、電気水道が止められ、部屋には家具らしいものが一切なくがらんとしていた。絃の切れた三味線と「うたほん」と書いた手帳が五冊と行司の持つ軍配の形をした小さなバッジが枕元に置いてあるだけだった。まったくの無一物だった。良くも悪くもお金に執着しない清く美しい人生だったようにみえる。愛されるより人を愛することが多かった人生に思える。この小説では、主人公のサダ(愛八)の生涯(ストーリー)を丁寧に描く事で歌とはどういうものなのかが伝わってくる。歌の作り手である作詞家なかにし礼にとって歌とはどういうものかがわかる。歌が生まれる時というのは、だれかの想いが形になる瞬間なのである。そして歌を聴く時歌を歌う時、その想いに私達は共感する事ができる。歌には、心の支えとなり人を勇気づける力がある。歌の力、音楽の力である。

 詩についてはほとんど何も知識がないが、学生時代、ミュージシャンの佐野元春さんが詩を朗読するのがうまい事は印象に残っている。詩の内容はシリアスなものだったり頭に浮かんだものをただ書いたようなものだったり言葉遊びだったりしたが、佐野元春さんが詩を朗読すると音楽のように聴こえる。その当時村上春樹さん訳のレイモンド・カーヴァーというアメリカの作家の詩も意味深だがわかりやすい所が好感を持てた。社会人になってからは洋楽も好んで聴かなくなったが、ヒップホップのエミネムはマイブームになってしばらくはまった。詩は、読み方によって、歌のようにも聞こえる。個人的には詩は音楽に近いように感じる。最近観たミュージカル映画インザハイツの中での役者のセリフも、詩のようでもあり歌のようでもあると思った。ミュージカル映画を観る上で大事な事は、役者が目に映ったものや心情を歌っている時に、「自分の人生」と言った大局的な観点から俯瞰して「自分との対話」ができると、ハマるかどうかは別としてとりあえず観続ける事ができるような気がする。