イノベーションと忖度したい人々のはなし

 宮台真司さんと安藤優子さんのユーチューブを観た。社会学という学問の話をされているのであろうし、何本かユーチューブを観た位でどこまで内容を理解できたかわからないが、「自立した共同体」という言葉は印象に残った。スティーブン・R・コヴィー著「7つの習慣」を読んで、「自立した個人」については考えた事があったが、「自立した共同体」と言う発想はなかった。

 多様性が尊重される時代で、だれもがタブー抜きで「個人の立場」を主張できる半面、「公の場」で物事を明らかにするという発想が消滅してしまったのではないかと感じる事がある。個人としてではなく、本来どうあるべきかと言う発想である。素直な心でものをみれば真実や善悪がわかると言う発想がなくなってしまった。どうしてそうなったのだろうか?一つには、週刊誌などのマスメディアによって個人のプライバシーがほとんどなくなってしまったことがある。「公の場」での発言も個人のプライバシーも明るみに出てしまう。そうなると、「公の場」で話そうというモチベーションが湧かない。もう一つは、多様性が尊重される時代で、専門性や論理的思考力が求められるようになり、話が複雑になる傾向がある。話を聞く方が頭を抱えてしまうことも少なくない。しかし、「公の場」で物事を明らかにするという意識が弱まってしまうことは、個人のモラル低下や不正の助長に繋がる。危惧すべきは、国民の人権や安全・安心な生活に影響を及ぼす事だろう。権力というのは、政治家や官僚だけでなくお金を持っている大企業にもある。そのような人たちが、裏では互いを忖度しながら繋がっているのである。この「依存した共同体」の中での組織や個人の思惑が「公の立場」にすり替わってしまう事が恐いのである。

 ネットで調べると、最初に緊急事態宣言が出たのが2020年4月7日なので、コロナと格闘し始めてからもうすぐ三年になる。誰もが安全で安心な生活を取り戻したいと願っているはずである。コロナが収束するだけでなく、持続可能な地球環境の保全や持続可能な社会保障を願っている。最近では防衛費なども話題である。どれもお金がかかるが、国の借金は1000兆円を超えている。政治家は景気が良くなれば税収が増え国の借金を返済できると言うが、本当にそうだろうか?そうであるならば増税など必要ない。結局支出が増えれば増税が必要になるのであれば、今後も増税が必要になる。増税分は誰が負担するのだろうか?「公の立場」で考えれば、「お金に余裕がある人がなるべく負担しましょう」という発想になるはずである。しかし、現実はそうならない。「公平な税負担」の名のもとに、地盤沈下が起こる。「依存した共同体」からこぼれ落ちた多くの日本人が貧困に陥るだろう。そう考えると、「依存した共同体」を存続させる為に、日本人の何割かを切り捨てようとしているようにもみえる。

 そもそも「自立した個人」とはどういうことなのか?「7つの習慣」を読むと周囲に依存した状態から「自立した個人」になる為の三つの習慣が書かれている。わかりずらいのは、第一の習慣「主体性を発揮する」のなかに出て来る「主体性のモデル」ではないかと思う。人は、動物のように(外部の)刺激に対して直接反応するのではなく、自覚、想像力、良心、自由意志という独特な性質をもち「自分の反応」を選択する自由もつ。英語のレスポンシビリティ(責任)の語源はレスポンス(反応)とアビリティ(能力)という二つの言葉からなる。「自分の反応」を選択する人は、「自分の反応」を選択した結果を受け入れる「責任」が生じる。「自分の反応」が誤りであったのであればその誤りを自ら認めなければいけない。「7つの習慣」の一番重要な哲学は、このようなトライアンドエラーを繰り返し人格を磨き、「自分の人生」を切り拓いていくべきだという事ではないだろうか?岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら」で話題になった言葉に、「真摯さ」がある。「(マネージャーには)根本的な素質が必要である。真摯さである。」「真摯さ」を英語にするとintegrityで、これを英英辞典で調べると、「あなたが「正しい」と信じていることに関する正直さと強さの質」という意味になる。もしドラでは「真摯さ」をマネージャーの素質として語られているが、「真摯さ」は、「自立した個人」にも求められる。

 個人の多様性は、「自立した個人」同士の間で、はじめて成立するものであるように思われる。もともと、欧米の人は、物事を直視し、他者との話し合いを通じて、論理的に物事を解決して行く個人主義の文化がある。そして、鉄道、自動車、飛行機、医療、電気、コンピュータ、ネットなどを発明してきた日本人にはないイノベーションの歴史がある。日本人は、実体のないものについて考える事を荒唐無稽だと嫌う傾向がある。欧米の人が普段からディベートを通じて抽象化思考などの地頭力を鍛えているのと比べると、日本人は職人的なのかもしれない。一方で、日本人の中には、人を忖度するという全体主義の文化もマスメディアの討論を聴いていると根強く残っているように感じる。映画「有頂天ホテル」で「謹賀信念」という垂れ幕が出て来るが、「謹賀新年」の間違いじゃないかという人はあまりいない。そんな国で、個人の多様性が尊重される事は、風通しが良くなって良い面もたくさんあるが、「多様性の落とし穴」と呼べるような事もある。例えば、「多様性を認める社会」という風潮の中で、少数派の意見を力説する人も居れば逆説的な意見を力説する人も居る。説明責任と言って論理的な説明するが真意がよくわからない人も居る。欧米の人であれば、「あなたの意見は間違っている」と少しかっこ悪くても話す事でコミュニケーションが成立する。しかし、日本人の場合、全体主義の文化の中で曖昧に忖度してしまう人もかなりの割合で居るのではないだろうか?そうなると、本当の意味で、個人と個人の間でコンセンサスが取れているのか疑問である。「公の場」で、真実や善悪を明らかにする事も難しくなる。

 年末からユーチューブをチラホラ観ていて、合点する事が二つあった。一つは、一人当たりの労働生産性やGDPの考え方である。私たちは、労働生産性やGDPを上げることを考える場合、事業をできるだけ良心的で効率的なシステムに変えて、たくさんの商品やサービスをなるべく安く提供することを考える。「それが王道だ」という感じで、ほとんど固定観念に近い。しかし、この考え方は、人口が増え続けている時代に成立していたビジネスモデルであり、現在のように人口減少社会においては必ずしも成立しない。現在の日本において労働生産性やGDPを増やすためには、イノベーションが必要である。言い方を変えれば、バブル崩壊以降、日本では、イノベーションと呼べるような事業をあまり生み出して来なかった。他の国は、毎年少しづつでも成果を挙げ続けている。今ないことをするのがイノベーションであって携帯電話が生まれたことによって、私達は当たり前に携帯電話にお金を払う。もう一つは、経済や投資についての考え方である。国は、GDPを増やして税収を増やしたい。しかし、その為には、企業は、個人に支払う賃金を上げるのと同時にイノベーションを生み出して行かなければならない。また、ここでいう「企業」というのは、大企業だけでなく無数の中小企業を含めたすべての企業のことである。私達は、このような当たり前の事実を見過ごして経済や投資について議論しているのであれば「日銀の金融緩和」と同じような失望を繰り返すことになるだろう。

 宮台真司さんと安藤優子さんのユーチューブのなかで、「人は一人では生きられない」という言葉があった。しかし、国や企業、家族は劣化してしまい、「信頼できる共同体」でなくなってしまった。「依存した共同体からこぼれ落ちた個人は、孤独に陥り、神経症的な精神状態から犯罪を犯してしまうかもしれない」とも指摘していた。だから、「助け合える仲間を作りなさい」というのだ。しかし、10代20代の若者にとっては、それはそれで難しい事なのかもしれない。苦い経験も覚悟しなければいけない。そして、「以前の日本は、経済大国と呼ばれた。しかし、現在の日本は、多くの他の国と比較して、経済力でも劣っている。アメリカや中国と肩を並べるような経済大国なんかじゃない。経済敗戦国だ。」という宮台真司さんやデービット・アトキンソンさんの分析は、的を得ているように思う。このような限りなく悲観的で八方ふさがりの日本においては、個人の多様性を尊重し、個人が多様な主張を述べたり、イノベーションを生み出すような個人主義の文化を認める一方で、「自立した共同体」のなかで「互いが相手のことを忖度する(=考えてやれる)全体主義」の社会が求められているように感じる。

 宮台真司さんが指摘するように、現実に、警察官や自衛官、医師や看護婦、教員、老人ホームや障害者施設の職員など本来「人を助けるような仕事」に就いている人たちが犯罪を犯している。そして、通り魔的に人に危害を加えたり怨恨から殺人を企てるニュースも多い。夫婦や家族の間でも同様の事が起こる。もちろん、責任は個人に求められるべきであるのは間違いないが、背景には、バブル崩壊以降30年間の長期の経済停滞のなかでの「共同体の歪み」も遠因としてあるのではないかと思う。簡単に言ってしまえば、「経済的な余力がなくなった分、立場の強い者が自分の権利を守りながら自分より立場の弱い者に責任だけを押しつけ権利を分配せずに従わせることを当たり前とする」風潮である。その一方で、政治家、官僚、財界人は、互いを忖度しながら結び付いているのである。公私混同の末に、「公の立場」という考え方が疎かになるとしたら恐ろしい事である。そのような図式の連鎖の末端で犯罪が起きている印象がある。互いを忖度するような全体主義の文化を認める「依存した共同体」は、現在の日本にも存在する。しかし、この「依存した共同体」に含まれていない国民がたくさん居るし今後国が衰退すればするほど、この「依存した共同体」に含まれない国民の割合が増えるだろう。

 今後増々日本が衰退し多くの日本人が貧困に陥る事になれば、犯罪も増えるだろう。このような犯罪を減らす為には、「立場の強い者が立場の弱い者を従わせる」という現在の風潮を「立場の強い者が立場の弱い者を助ける」という風潮に変える事が大切である。自分だけが助かるだけでなく他の人も助かればいいという良心は、多くの人の心のどこかにもともと存在する。恵まれた時代には、そのような人の結び付きを煩わしく感じていただけである。そう考えると、安全で安心な生活を強く求められる今、多様な個人の主張を認める個人主義を認める一方で、「互いが相手のことを忖度する(=考えてやれる)全体主義」の社会が求められているように感じる。「互いが相手のことを忖度する(=考えてやれる)全体主義」の社会に回帰すれば、国が貧しくなっても、愛、他者への思いやり、無償の善意、利他という現在失われがちな価値観を自然に取り戻せるかもしれない。こういう感情が芽生えるかどうかは、人の幸せとも結びついている。しかし、富める者と貧しい者との分断は、アメリカ国内だけでなく、先進国と発展途上国の間だけでなく、日本国内でも起きつつあるように思う。つまり、日本が衰退するなかで多くの国民が「互いが相手のことを忖度する(=考えてやれる)全体主義」の社会を求めているにもかかわらず現実にはそうならない事を意味する。

 宮台真司さんは、「助け合える仲間を作りなさい」と言う。仲間というのは、友達や地域住民など「自立した個人」同士が助け合えるような「自立した共同体」を意味する。「自立した共同体」は、必ずしも「自立した個人」同士の共同体でなくても、「自立した個人」に賛同して人が集まってくるような共同体でも良いのかもしれない。しかし、そのような共同体であっても、物事を決める際には、「だれが決めたのか」を全員がわかるようにして置く必要がある。宮台真司さんも、社会学の研究をはじめた当初は、自分の学生時代のテレビドラマのセリフみたいな事を言いたかった訳ではないだろう。しかし、他の多くのインフルエンサーの人たちと同様に国に対して懐疑的な為、結果的にそのような発言をするように変わったのだと思う。1000兆円の借金があって少子高齢化社会のなかで社会保障費は増大する。それを少ない若者で支えなければならない。インフレやイノベーションによって、状況が一変することが絶対にないとは言い切れないかもしれないが、とても現実の問題を議論しているとは思えない。しかし、「公平な税負担」の名のもとに消費税の増税をすれば、一部の人たちの人命にも影響する事も考えなければいけない。それが現実であり、私達は、そのような岐路に直面している事を自覚しなければいけない。これまでは、善意の第三者的な発言で誰も傷つけない物言いが好まれたが、そのような物言いが白々しく聴こえる日が来るのかもしれない。個人には、善意の第三者として多くの人を忖度した発言よりも、「自立した個人」としての「真摯な態度」が強く求められているように感じる。「真摯さ」は、分断の時代に、相互信頼を築く唯一の方法になる。宮台真司さんが指摘するように、個人が家族や友人や仲間などの「自立した共同体」を持つ事も今まで以上に大切になるだろう。できる事なら、分断を回避し、多様な個人の主張を認める個人主義を認めつつも「互いが相手のことを忖度する(=考えてやれる)全体主義」の社会に回帰することが望まれる。