あの時何が起きていたんでしょう。ジャニスとユナの間で。
それはふたりにしかわからない。一つ言えるのは、このテキストにはそういうことを起こす力があるという事だ。
家福さんはどうして自分でワーニャを演じないんですか?
チェーホフは恐ろしい。
えぇ。
彼のテキストを口にすると自分自身が引きずり出される。感じないか?そのことにもう耐えられなくなってしまった。そうなると、僕はもうこの役に自分を差し出すことが出来ない。
でもどうして僕なんですか?僕は自分が場違いに感じています。僕はこの役に合っていません。観客だってきっとそう思います。オーディションでの僕は破れかぶれでめちゃくちゃでした。自分で何をやってるか?わからなかった。なのにどうして選んで頂けたですか?
音の引き合わせじゃないか?
誤魔化さないでください。僕は真剣なんです。自分を変えにここまで来たんです。
君は自分を上手にコントロールできない。
はい。
社会人としては失格だ。でも、役者としては必ずしもそうじゃない。オーディションの君もこないだだって悪くなかった。君は相手役に自分を差し出すことができる。同じことをテキストにもすればいい。自分を差し出してテキストに応える。
応える?
テキストが君に問いかけている。それを聞き取って応えれば、君にもそれは起こる。
(俳優の高槻(岡田将生)と舞台俳優で演出家の家福(西島秀俊)の会話)
引用:映画 ドライブ・マイ・カー
落語というのはセリフをしゃべっているのでなくて、その人、その人の気持ちに瞬間、瞬間なっていく。セリフは気持ちの現れですから、セリフから気持ちが入っていくんじゃなくて、気持ちからセリフが出てくるもんだと、わたしは思っています。
時々、笑わせてしまうことがあるんですよ。その時は悔やみますね。笑わせるのは落語の本意ではない。今日の自分を踏み越えてその上に行くには、笑わせるより、笑っていただく。私の舞台の上の世界に誘うっていうのがいい。
引用:柳家小三治さんの発言から
芝居や落語では、演者はストーリーを自分なりに解釈して言葉や演技で表現する必要がある。そして、映画のように映像に頼れない分会話の比重が高くなる。芝居のセリフが映画と比べて感情むき出しのセリフが多くなるのは、そうしないと観客に伝わらないからかもしれない。
人々の日常の中にある劇場や寄席で、舞台俳優や噺家が自分のセリフや噺で聴衆を振り向かせることは私達が考える以上にたぶん簡単なことではない。それは、テレビの芸人さんが体を張った芸をしたり、寄席で人気のない噺家さんを見るとわかる。自分の番になると席を立ったりトイレに行ったりして用を済まそうとする。聴衆は案外、自分の想いとは裏腹に無関心である。みんな自分の事で忙しい。自分の頭で考えている事を演者として観客に伝わるように表現するには話術やテクニックが必要である。又、俳優であれ噺家であれ、テクニックだけでは説明できない演者の個性や人柄も関係しているように思う。
ドライブ・マイ・カーの俳優高槻も、演出家の家福が認めているように、「どこにでも居る役者」ではなく、「聴衆を振り向かせることができる俳優」に見える。テレビタレントとして活躍している人は、番組の中で話題をみつけるのも、さりげなく話題を提供するのもうまい。たまに周囲のタレントから「嘘でしょ」などと突っ込まれたりする大御所も居るが、笑福亭鶴瓶さんや明石家さんまさんが日々の出来事を「面白い噺」に変えてしまう話術には人の心を明るくしてくれる様な所が有り一般の人も学ぶ点が多いと思う。柳家小三治さんや立川志の輔さんのような人気噺家は、落語も面白いが、その前のまくらでの趣味ネタやためしてガッテンネタなどのいわゆる自分ネタも面白い。
そして、上記の会話や発言である。演出家の家福や噺家の柳家小三治さん位のベテランになると、観客の興味を引き付けながらストーリーを聴衆に伝える事を通じて、ストーリーが暗に示しているテーマやメッセージまで気づかせて、人の心を深く揺さぶり、大きな感動を与える事を目指す。
テーマやメッセージは人によって様々だろうが、噺家の三遊亭圓楽さんの追悼番組を観てて円楽さんの発言からもテーマやメッセージが伺える。
落語は日本人がこさえた最高のエンターテーメントだと最近思うようになった。日本人の忘れ物は、優しさだとか人情だとか愛だとか友情だとか、それが全部落語の中にあるわけ。だから日本人の忘れ物は、落語の中に取りに来ればいい。私だって、疲れ果てて疲れ果てて色んなことした時に、あぁ、ユートピアは落語の中にあるなと思った。
引用:三遊亭圓楽さんの発言から