最近観たアメリカ映画、キャッシュトラック、Mrノーバディ、パーフェクト・ケアでは、共通して、殺された息子の復讐のため、家族を守るため、サクセス・ストーリーのため、主人公が自ら人を殺す設定であった。最初個人的には違和感をもったが、一般の人(キャッシュトラックはギャングのボスが警備会社で働く設定)の中にも目的の為なら手段を選ばないという考えが今のアメリカにはあるんだという印象を持った。
アメリカの前大統領トランプ氏がなぜ指示されるのか?不思議に思う。在任中は、地球温暖化を否定したり、核軍縮の条約を破棄したりしている。しかし、現在でもFBIからの捜査を受けたニュースが流れる一方で、共和党の予備選挙で、トランプ氏が推薦する新顔に反トランプの急先鋒現職のリズ・チェーニー下院議員が落選したニュースも流れた。バイデン大統領もトランプ氏やトランプ支持者を「国を脅かす過激思想の代表」として敵視する発言をしているようだ。つまり、トランプ氏は今でも一部のアメリカ人には支持されているのである。
海の向こう側の話で文化も習慣も違う他国の話であくまで憶測であるが、アメリカ人が地球温暖化を否定したり核軍縮を否定するようになった訳ではなく、上記の映画のように、一部のアメリカ人が自分達の権利を守るためなら、地球温暖化も否定するし核軍縮も否定するようになったという事ではないだろうか?それだけ一部のアメリカ人が追いつめられているという事が言えるかもしれない。背景にあるのは、権力のある人、お金のある人の権利は守られるが、そうでない人の権利は守られないということがあるように感じる。つまり、選挙では自分達の権利を守ってくれそうな人を支持するという事である。
日本でも他人の生命を奪うようなニュースが毎日のように流れる。いろんな人がいろんな意見を述べ議論もされるが、結局人権よりも経済政策が優先されることがある。その背景には、上記の映画ほど過激でないにしろ一般の人が他人の生命や人権に対して関心が薄くなった忖度しなくなった風潮も関係しているように感じる。少子高齢化が進み国が衰退していけば、さらにこの傾向が高まる。しかし、「他人の生命や人権を忖度しない暗い社会」しか存在しないようになれば、誰にとっても不幸なことである。
多様性が尊重され、ネットを使えばだれも自由に発言できる。しかし、一般の人は、話す内容が複雑になり話題に参加できない傾向もあるような気がする。確かに、説明責任を求められる人、専門家、コメンテーターと呼ばれる人などは大概論理的で複雑な事を混乱せずに説明することができる。そして、一般の人が話題に参加しようとすると、議論が成立しないこともあるのかもしれない。しかし、多くの一般の人が生命や人権について「危ない」と感じていることについて、それを否定して自分の主張を通すのであれば、同じように議論が成立していないのである。一般の人の「危ない」の声に、時勢に流されずに、忖度できる器がリーダーと呼ばれている人には必要である。