自分のアタマで考えるとはどういうことなのだろうか?
安田修著の「自分を変えるノート術」を読む。
一人合宿のやり方など細かいことは忘れてしまったが印象に残ったことがある。
日付と題名を書いたら、あとは自分のアタマのなかにあるモヤモヤしていることをどんどん書きなさいということである。(この本では、一般的な体裁を整えるようなノートの書き方を著書が一部否定している。)
忠実に、自分が本当に思ったり考えたりしたことだけを書く習慣がつくと、ノートにその記録が残る。すると時が経過してその考えた記憶を忘れてしまってもノートを見ることで思い出すことができるのである。
すごく当たり前な話であるが、情報の整理としてノートを子供のころから使っているが、アイデアノートとして使うことはやっていない人には効果がある。毎日いろんなことが起きるので、自分が考えたことも忘れてしまうから。
ちきりん著の「自分のアタマで考えよう」を読む。
普段何かしら気づくとそこから自分なりの結論を出すことは多い。しかし、著者はその結論は個人のバイアスがかかった思い付きや思い込みであると書いている。
しかし、もともと物事を順序立てて考えることが得意な勉強が好きな人も居れば、どっちかというとパッと閃いて行動する人も多い。後者の人にとっては、若いときは単なる思い付きや思い込みでも年齢と共に頭のなかで意識的にも無意識にも間違っているかどうか?チェックするようになるのでハズレる確率も減り結論に到達するまでの時間も若い人と比べて相対的に早いという特徴がある。比較的よく知っていることには対処できるということだろうか?勘が働くことは、生きて行くための処世術にはなる。
それではここで言う「自分のアタマで考える」とはどのようなプロセスなのか?
物事を順序立てて論理的に考えるプロセスである。
論理とは、結論と根拠、もしくは結論とその方法という複数の要素が結論を頂点として、縦方向にはなぜ?/だから何なの?の関係で階層をなし、また横方向にはMECEに関係づけられたものである。
また、結論(仮説)に対する根拠が1つでは成立しないらしい。根拠は2つ以上で3つ位あると説得力があるというのは一般の会話と同じである。
公正に結論(仮説)を出すためには、視点を変えてより多くの情報を集める必要がある。情報が増えると混同するので、比較の対象と比較の項目を明確にして図(思考の棚と呼んでいる)を使って情報を集める。図を使うことでモレを減らせる。視覚化情報にすることで記憶にも残る。(知識の部分※図を考える工程は思考の部分)
空欄の情報が見つからなければそのままにしておく。(知識の部分)
思考の棚をもとに結論(仮説)を出す。空欄の部分も含めすべてのケースを想定して結論(仮説)をあらがじめ考えてしまう。そうすると、空欄部分の情報を手に入れる価値が理解できる。(思考の部分)
思考の棚も結論(仮説)も、文字ではなく図(視覚化情報)にする工夫をしている。
現実には、思考の棚と結論(仮説)の図を行ったり来たりして考える。つまり、結論(仮説)をもとに根拠となる情報を集めるがうまく行かなければ結論(仮説)を見直すということである。やってはいけないのは、情報を集めてから結論(仮説)を出そうとすることである。
思考の棚が自分のアタマのなかでイメージできるようになると言葉で考えていた時より忘れにくくなり、空欄の情報に対する情報感度が上がる。また思考の棚がイメージできると、未来のことに対しても、混同せずに情報を整理して順序立てて考えることができる。
ここまで書いて気づいたことは、思考の棚を使って根拠となる情報と結論の関係が理解できる場合もあれば、本の中に出てくるような少子化問題や生活保護の問題など、解決策が一般的に見つかっていない問題について、自分なりの切り口を見つけて問題解決のため提案をする場合もあるということである。
前者は穴埋めパスルや連想パズルに例えることができるし後者は分析結果が印刷された試験問題に例えることができる。しかし後者はだれも解答も解法のヒントもわからないのである。
「自分のアタマで考える」プロセスについて、もう一度考えてみる。
「自分のアタマで考える」プロセスは、根拠となる情報を思考の棚やその他さまざまな図やグラフに加工する分析の工程とその分析結果から結論を考える工程に分かれる。前者の工程で、「知識と思考をはっきりと区別された」そして「私達が問題解決するために一番わかりやすいかたちに情報が整理された」ということが言える。後者の工程で、「分析結果から結論が出された」ということが言える。後者が著者が言うところの「自分のアタマで考える」プロセスである。
小宮一慶著ビジネスマンのための「数字力」養成講座も似たような内容に思える。この本では、数字を見て、自分のアタマで考えるにはどうしたらいいか?具体的な方法まで書かれている。しかしこの本を読んだからと言って多くの人が自分のアタマで考えることができるようになる訳ではないような気がする。
私達が肝に銘じなければならないことは、試験問題をよく読むこと以外ないのである。
わからないことがあるとネットで調べることができる。短い時間で必要な情報が検索できて便利であるが、闇雲に情報を検索していたり考えることを放棄している面もある。
「私は考えた」というのは、「私はあるインプットをもとに、なんらかの結論を出した。ある考えに至った」ということである。
だれにでも自分のアタマで考えて結論を出さなければならないことはある。
著者は、考える力をつけたいのであれば、考える時間を増やしましょうと指摘している。